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2017.02.13視察報告(国内)

福島県視察を振りかえり(横浜国立大学 経済学部 飯塚忠之)

はじめに
当レポートでは九月におこなった福島県視察において得た気づき、課題に関してまとめたものである。
前提として、2015年現在の東方地方の被害状況を簡潔に述べておく。
2015年9月10日現在被害総額:9,227,542,356千円
2015年10月30日現在直接・関連死者数:10,547人 (以上、宮城県HP)
2015年10月8日現在避難者数:147,951人 (復興庁)

「コミュニティ」の観点から見た震災被害
当視察においては各所で貴重なお話をいただくことが出来たが、その中で私は「コミュニティ」と言う観点がそれぞれに通底しているように感じた。そこでここでは「コミュニティ」が震災を経てどのように変遷していったのかを見ていきたいと思う。
コミュニティの問題が根底にある、福島に関するトピックをいくつか上げてみたい。
一つには、故郷に帰ることへのためらいという問題がある。被災地の一つ富岡町では2018年9月に帰還許可が出るとされているが、実のところ、住民の間には喜びよりも不安のほうが多いそうだ。すなわち、一人(一家族)帰還しても、元のようにご近所の方も戻ってくるのかわからない、地元の商店も元のように営業されるかもわからない、そのような中で暮らすのは不安であるし、到底元の生活とはいえない、ということである。
また、他の例では、仮設住宅に避難した高齢者の方々の多くが抱えている不安として近隣に知り合いがいないこと、自分の居場所が喪われたように感じるというものがある。確かに、知らない場所に避難をしてきて広い場所に同じ形の建物が立ち並ぶ中で、お年寄りが故郷の知人を見つけるために行動するのはひどく難しいことだろう。このお話をしていただいた「おだがいさまセンター」では仮設住宅地内にラウンジやコミュニティハウスを設けることで高齢者の方々が集まり、交流できるスペース、すなわち新たな居場所を提供し評判を呼んでいるが、これは高齢者の方々を中心とするこのような不安を如実に反映するものであると考えられる。
加えて、話に聞いたのみであり実際に当事者、現地に当り調査したわけではないということをあらかじめ断っておくが、被災者同士の格差による軋轢も発生しているようだ。
「五年目を迎えた原発事故の現地から――福島の現実と原発ゼロの道――」(伊藤達也「平和運動」日本平和委員会2015.5)第2章(6)によれば、「県内最多の2万4000人が避難しているいわき市内で、2012年末に『被災者帰れ』の落書きが市役所入り口など4ヶ所にかかれる事件」等が起きているということである。原因としては、同じ被災者の中でも賠償金認定に差があることや、ゴミだし等生活ルールの差と被災によるストレスにより、住民と避難者の対立が顕在化したことが考えられている。
これらのような例が示唆するのは、震災が既存のコミュニティを破壊してしまっている現状である。私の印象として、核家族化、個人主義が進む首都圏に比べ、福島の方々は近隣の人たちとの和、助け合いを重視する傾向が強いように見られた。そのような環境でコミュニティが崩壊すれば、どれだけ人々に不安がもたらされるかは容易に想像できるだろう。
衣食住が保障されればそれで生きるのには十分、などとは到底言うことができない。先述の「おだがいさまセンター」がおこなっている働きかけのように、被災された方々の「居場所」を新しく作る、復旧するということもまた東北復興のために必要不可欠な施策であると私は考える。

首都圏の利益、福島の利益
福島の各施設を案内してくださった村松めぐみさんから、私たちゼミ生はこのような問いかけをいただいた。
「今回災害が起きた福島原発は地元ではなく首都圏の電力をまかなうために使われていたものだった、ということについてどう思うか」
僅かにではあるが震災が福島に残した爪痕の深刻さを思い知ってきた私たちにとって、この問いかけは非常に考えさせられるものであった。以下では、現時点での私の考えを述べて、このレポートの結びとしたい。
まず、極端に功利主義的に考えてみる。その後にその論の違和感を抽出していきたいと思う。
功利主義的に考えれば、次のようになるだろう。首都圏の利用者は、適切な料金を支払い利用した。東電や国はそれを用いて(例えば雇用創出、核燃料税、電源立地地域対策交付金のように)原発受け入れ地域に経済等援助を行った。福島の方々はリスクとリターンを天秤に架け原発受け入れを決めた。首都圏との経済格差もあるため、経済等援助に対する需要が高かったのだ。また、建設を要請した東電や国側には、国家機能が集中する首都圏の近くに原発を置くことは高リスクであるという判断もあったのかもしれない。問題はそのリスク説明の時点で東電がリスクを過小に説明したことである。よって真に責任を負うべきは企業としての道義を守らなかった東電のみである。……と言ったところだろうか。論理的ではあるが、やはり配慮と自省に欠けた論であるように思える。
上の論に対する違和感、すなわち我々首都圏の人間が持っている責任であるが、私は「東電に全ての責を負わせていること」にあると考える。
福島県の方々は、原発の脆弱性について再三訴えを送ってこられた。それが福島全県民のうちどのくらいの割合で行われたのか、残念ながら調べがつかなかったが、結論としてその訴えは省みられず、そして最も恐れていた事態は実際に起きてしまった。
震災が起きる前、首都圏に住む我々の中で一体どれだけの人が福島原発に潜む脆弱性を気にしていただろうか。もし、我々の多くがそれを知り、東電に働きかけていれば改善はなされたという可能性はないだろうか。ここに我々の「責任」があると思われる。
つまり、「受けている恩恵の出所に関して、無頓着である」ということが我々の責任、震災で被災された方々に対し無意識に抱いている罪悪感、負い目ではないだろうか。翻ってこの点を敷衍すれば、例えば飽食の文化、使い捨ての文化などの悪習もまた同じ端に発するものであることがわかる。
首都圏には国家機能があり、また人や財が集う。したがって高い重要度を持ちインフラの拡充は非常に重要となってくる。これに関しては何も間違ったことではなく、必要なことだ。ただ、そうして集まってきた資源に対し、首都圏に住む我々が「お客様」の立場で供給元の問題に関して無頓着になってしまってはいけない。
「いつの間にか/主人になったつもり/文明の/なんという無作法」(地球の客/谷川俊太郎作)という詩の一節を思い出す。この詩は人間の地球への驕りを描いているが、同じ人間同士の間にもそんな驕りがあるのではないだろうか、今一度問いかけてみたい。

〖 横浜国立大学経済学部 飯塚忠之 〗

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